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MARTH コラム Q & A 本質から表現するという自由さ

2020年1月13日

Q:この世界には、とんでもなくひどく見える人たちがいます。私はとても怖いのです。 MARTHさんはすべてが万物の子で、神の子で愛の子で、かつ一体であるといつもおっしゃられています…。しかし私はそのように感じることができません。どう思われますか?

本質から表現するという自由さ

MARTH:この世界が一体で、あらゆる生命、あらゆる物質(鉱物)と呼ばれているものを含め、ありとあらゆるものが一体物であり、愛であり、本質であることには少しも変わりはありません…。

しかし、人間は、そう思えなくなるような分離の世界の中で 長きにわたり生きてきました…。当然、分離の中では恐れが増えてゆくのです…。自と他という分かたれた感覚から生まれる自我も強くなっていって当然です…。そのような自分と他人という分離感はますます強くなり、おのずと敵味方ともなり、それが強まれば強まるほど、人は愛を失ってゆきます…。それは必然です。

この分離の社会の中では、環境や状況によっては非常に愛を失ってしまう、一体性、安心感、本質を失ってしまうという方々があらわれてしまうのは当然のことなのです。 つらい思い、苦しい思い、分離の中でとてつもない、恐ろしい目にあうとか、また、ものすごく周りの人たちが分離を信じている、敵対を信じているというときには、そうなって当然なことです…。

しかし、だからといって、愛でなくなった、神でなくなった、本質でなくなった、というわけではけしてないのです…。 なぜなら、その人達は全員素粒子でできています。原子でできているのです。そして電子でできているのです。すべてはフォトンの一体の海なのです…。

ということは、その方たちもみな一体物であり、愛であるということに他なりません…。 問題は、その方達がそのような自らの本当の質である愛をあらわせなくなるような、苦しみやつらさ、恐れがきっとあり、そのような私自身、自分自身の表現の自由に問題があるのです。

「私はこのようにすべてを一体だと考え、愛だと考えている。私はあなたのこともそのように愛の人と見ている。ということをしっかり伝えたときに、その相手の人は、そのようなものをあらわしてくるかもしれません。 しかし、自分が恐怖の中で、恐れの中、分離感の中で隔たっていて、他と見える人たちとの分離感や、恐れ、恐怖をもって、そのように用心していたとしたら、どうでしょう…自らの本質を開いていないとしたら、相手の人はもっと開くことはできないことでしょう…

そうであるならきっと、お互いに愛の子ども、本質の子ども、神の子どもに出会うことが互いにないでしょう… 仮に、そのように思って生きている人にあなたが出会えたならば、あなたはその人を愛するかもしれません。 逆に、あなたがもし、そのような本質的な感覚の中で生きていたら、相手の人はあなたを愛するかもしれません…。 しかし、互いに不信感の中にいるならば、それは起こらないでしょう…。 片側の人だけが、という場合も、その人が表現しなければ、起こらないことでしょう…。

なぜなら、恐れの中にいる人々は、たがいに不信感でものを見るのが必然であるからです。 ですから、あなたが勇気をもってそれを表現しない限り、相手の人はそれをキャッチすることは難しいでしょう…。そして、キャッチした上で、あなたはこのように思い、このように生き、愛をつらぬくのだ、そのような人なのだということをあなたが表現し、そして相手の人が、いや、私には無理だ、私にはまだ早い、私はそれが嫌だ、というのなら、それでよいのです。 ただ、あなたが何を表現している人か、どう生きているのか、ということは、相手は本当は愛(神)の子であるゆえにそれを認識します…。 しかし、自分にはまだ準備ができていないとか、私はそれがあまり好きではないとか、自分は今そう思えないとか、そう思えば、きっとそのように伝えてくれるでしょう。それでよいのです。 ですから、強く見せたり、戦う人に見せたり、すごい人、偉い人、といったように見せようとしなくてよいのです。愛の人として、ただ生きればよいのです。 自分がどうであるかをいつも表現して生きれば…。私の場合はそれをいつも伝えています…。 「ああ、MARTHはそのような考えなのだ。弱いやつだ、やつはうまく生きれないよな。MARTHは愛が好きなのだ。MARTHは世界をそう見ているのだ」それでよいのです。その方々がそれに賛同する必要もないし、そのとおりに生きようとする必要もないのです。仲良くする必要もありません…。

私はそう思えない、そのように見えない、それで良いのです。 まだ時間が早い、自分はまだ準備ができていない、そう感じてくれていれば、それで良いのです。 ただ、だからといって相手の方に合わせて、自らが分離を表現する必要はないのです。強がらなくてもよいのです。 自分がそのことに気づいているなら、そのとおりの在り方で生きることが大切です。 私はそのように自分を表現して生きてきました。誤解がないように、あいつはそういう奴だ、というように分離を信じた仲間たちが、そのように話していて、それで良いのです。 あいつはそういうやつだが、おれはそうは生きたくない、おれは生きない、おれは信用できない。それで良いのです。そしてあなたがもし、万物、一体性や愛や人々の本質を信頼できるなら、それを表現するべきだということをお伝えしています。
表現することで、あなたの世界は変わってゆきます…。

MARTH


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